食い溜め
2010年4月13日http://fukugyofx.gambling2.net/sogolink_1.html
食い溜め
自分の身にすごいことが降りかかってきたときや、周りが激動のときには、わたしはすっかりとしょげ返ってしまうのではなく、無性に腹が減る。そして、なんでもとにかく食べておかなければと思うのだ。
山で遭難しかけたときも、一緒に北アルプスに登った道連れの大学生から、とにかく食べないといけないよと注意されて、思いがけない秋の大雪の中、テントの雪を払いながら、生きるためにフランスパンとチーズを齧って胃の腑に納めようとしたことがある。
わたしは、いまが最高潮に太っている。自分の体重の記録更新中だ。
「なんで、そんなにがつがつと食べるんだ」と、人に言われると、
「いま、食っておかなければ、食えなくなる日が来るから」と、平然と答える。
「寝溜めと食い溜めはできないって昔から言うぞ」
それでも人間は本能的に危機に直面したときには生存することに無意識に動く。わたしは無意識に食べ続けているのだ。自分の中の危機感がそうさせる。
「だけど、そんなに太ったら、逆にメタボで成人病が怖くないか。病気になるぞ」
その人は忠告する。そうかもしれないが、これから人類はいまだかつて経験したことのない長い冬、氷河期に入る。わたしは冬眠する熊のように食っておくのだ。
脂肪がついたら、それは醜いかもしれないが、わたしの中への備蓄なのだ。
よく言われるのが、冬山で遭難したときに、死ぬのは大抵男で、女は不思議と助かる。何故なら、女のほうが脂肪があるからだというのだ。脂肪がつきすぎて死亡することもあるかもしけないが、生きる志望のためには、脂肪はなくてはならないものらしい。
とかなんとか、言い訳しながらひたすら食欲の秋で食っている自分の理由はあってないようなものだ。
昨日、NHKのスペシャルで、食糧難を迎えるこれからの時代のことを報じていた。食糧増産のスピードが世界人口の増加スピードについてゆけないというのだ。それと、バイオエネルギーのためにアメリカがとうもろこしの価格を上げている。中国とインドの人口爆発と肉の消費増大がその家畜の餌の消費拡大でも拍車をかけている。なによりも、投資家による穀物への投機だ。人間の欲は醜さを通り越して、犯罪に近くなっている。飢えて死ぬ人々がいる陰では、大儲けを企んで価格を吊り上げている資本家がいる。
エンクロージャーと呼ばれた牧草地の囲い込みがヨーロッパであったが、それと似た現象が、各地で行われて、ウクライナや南米の広大な農地を獲得するために、ヨーロッパやアメリカのアグリビジネスの大会社が動いて、もう確保できる土地はないのだとか。
食糧難をビジネスチャンスにしようとしている。そこには倫理感などまるでない。世界各地で貧困層の暴動が起ころうが、子供や弱い者からバタバタと食えなくて死んでゆこうが、そんなことはどうでもいい。価格高騰で吊り上げられる食糧は、石油と同じで、人が困るところから取り立てるようなものだ。
そうなったら、一揆打ち壊しだ。食えない人らで、蔵を襲う。インターネットで煽動すれば、罪になるからといっても、こんなブログを真に受ける人もいないだろう。
江戸時代の末期はまさに鰻上りに民衆の蜂起が高まった。悪政はいつの時代も倒される。そんなことが許されていいものか。
いまは、笑っていられる人たちも、飽食の時代で、コンビニにもスーパーにも食糧はいくらでもあり、食べ残して四割も捨てていて、冷蔵庫の中はいっぱい、ダイエットのために食べないようにしているときに、そんな江戸時代の話をしないでよ、と言う人も青ざめるときがすぐそこに来ているとテレビでは警鐘を鳴らしている。
二十一世紀は水不足にもなるという。そのために各地で戦争も起こるだろうと予測されている。加えて、オイルと食糧不足の取り合いだ。まさに生存競争の戦争が起こるのだろうか。
この欲望の星は次第に露骨に浅ましく、人間の醜さを前面に出して、終末へと急いでいるように見える。近ごろの石油の高騰と、穀物の投機、土地の囲い込みと各地での戦争、世界的な格差社会の露呈。それに加えて、日本と中国での食物の偽装と毒物混入。みんな儲けようとあらゆる手を使い、詐欺も横行している。わたしが神なら、こんな恥ずかしい失敗作品は、いますぐにでも壊して閉じたいところだ。
もし、すべての食品がいまの十倍の値段になったらどうなるだろうか。それでもエンゲル係数はそれに比例して上がらないだろう。きっと、料理に工夫して、安い材料で、似たような味と食感が出るように代用食が戦時中のように復活するのではないか。コーヒーもタンポポの根を焙煎して入れたりしていた。
家庭菜園もどの家庭でもやるだろう。ベランダでも足りずに、玄関から廊下へとプランターを並べて、部屋の中はそのまま温室だ。水耕栽培もできるものが売り出される。もやしや、ラディッシュ、茸なども家の中で簡単にできて、それが毎日の野菜になる。
戦時中の本が入ってくると、そんな都会での野菜栽培の本もあった。まさに一億二千万総国民戦時体勢で望まねばならない。
当然、タバコや酒といった贅沢品、嗜好品は節約になり、買うよりも作れで、どぶろく復活、うちの古本屋では辞書が売れる。コンサイスなんかちょうどいい。インディアンペーパーで、蓼の葉を干して刻んで巻いて、タバコの代わりだ。
水も食糧も節約するから、余して捨てることはなくなる。食べ物を大事にしようと言わなくても奪い合いだから、これはいい時代になりそうだ。ご飯粒ひとつ残しても叱られた子供のときを思い出す。一汁一菜でも三食食べられる家はまだいい。価格の高騰だけでなく、絶対数が不足するから、米が切れたら並んでも買えないという日が来るかもしれない。政府はそうなったら、米だけは昔のように配給制にするのだろうか。米穀通帳もまた復活して、それがなければ配給も受けられない。
国民が米を食えないなら、ケーキでもパンでも食べたらいいだろうという、どこかの王妃のようなことは言えない。そんな時代にはケーキなんか贅沢品で売ってもいないのだ。小麦と大豆は世界の奪い合いで、日本人の口には入らない。やっと米と野菜、魚だけが口に入る程度。暫くは、パンも麺類も口には入らない。納豆に味噌、醤油もないから、魚のひしおで代用。米だけで味噌を作る。日本人がまた米に戻るのだ。食料自給を上げるために、多くの若者が帰農する。その時代には、金はあまり価値がなく、食糧が価値を持つ。
強盗が入ると、「金を出せ」とは言わず、
「米と味噌を出せ」と包丁を突きつける。
江戸時代には、飢饉のときには、金を持っている旅人が追いはぎにやられずに、食糧を運んでいる人がやられたと言う。金がいくらあっても、配給だから、買えないし、腹いっぱいは食えない。戦時中には、羊羹がひと月に各家庭に一切れだけ配給があったと、おふくろから聞いた。甘いものは、そうなると、アザミの花をむしって舐めたり、野山にある野生の果物だ。
中国でも食糧難になると、日本で三割も輸入していたのが、入らなくなる。それは時間の問題だろう。そのときになって、中国製でもいいと言っても、もう遅い。どんなに食糧自給率を上げても、半分までゆくだろうか。いまの半分以下の食事でわれわれは我慢しなくてはならない。
そのために、いまから食べておくことだ。腹の周りに贅肉をつけておくこと。ただ、あまり美味しそうに太ると、肉として見られると困るから要注意だ。最後は、人間が人間を食うよりないのだから。
食い溜め
自分の身にすごいことが降りかかってきたときや、周りが激動のときには、わたしはすっかりとしょげ返ってしまうのではなく、無性に腹が減る。そして、なんでもとにかく食べておかなければと思うのだ。
山で遭難しかけたときも、一緒に北アルプスに登った道連れの大学生から、とにかく食べないといけないよと注意されて、思いがけない秋の大雪の中、テントの雪を払いながら、生きるためにフランスパンとチーズを齧って胃の腑に納めようとしたことがある。
わたしは、いまが最高潮に太っている。自分の体重の記録更新中だ。
「なんで、そんなにがつがつと食べるんだ」と、人に言われると、
「いま、食っておかなければ、食えなくなる日が来るから」と、平然と答える。
「寝溜めと食い溜めはできないって昔から言うぞ」
それでも人間は本能的に危機に直面したときには生存することに無意識に動く。わたしは無意識に食べ続けているのだ。自分の中の危機感がそうさせる。
「だけど、そんなに太ったら、逆にメタボで成人病が怖くないか。病気になるぞ」
その人は忠告する。そうかもしれないが、これから人類はいまだかつて経験したことのない長い冬、氷河期に入る。わたしは冬眠する熊のように食っておくのだ。
脂肪がついたら、それは醜いかもしれないが、わたしの中への備蓄なのだ。
よく言われるのが、冬山で遭難したときに、死ぬのは大抵男で、女は不思議と助かる。何故なら、女のほうが脂肪があるからだというのだ。脂肪がつきすぎて死亡することもあるかもしけないが、生きる志望のためには、脂肪はなくてはならないものらしい。
とかなんとか、言い訳しながらひたすら食欲の秋で食っている自分の理由はあってないようなものだ。
昨日、NHKのスペシャルで、食糧難を迎えるこれからの時代のことを報じていた。食糧増産のスピードが世界人口の増加スピードについてゆけないというのだ。それと、バイオエネルギーのためにアメリカがとうもろこしの価格を上げている。中国とインドの人口爆発と肉の消費増大がその家畜の餌の消費拡大でも拍車をかけている。なによりも、投資家による穀物への投機だ。人間の欲は醜さを通り越して、犯罪に近くなっている。飢えて死ぬ人々がいる陰では、大儲けを企んで価格を吊り上げている資本家がいる。
エンクロージャーと呼ばれた牧草地の囲い込みがヨーロッパであったが、それと似た現象が、各地で行われて、ウクライナや南米の広大な農地を獲得するために、ヨーロッパやアメリカのアグリビジネスの大会社が動いて、もう確保できる土地はないのだとか。
食糧難をビジネスチャンスにしようとしている。そこには倫理感などまるでない。世界各地で貧困層の暴動が起ころうが、子供や弱い者からバタバタと食えなくて死んでゆこうが、そんなことはどうでもいい。価格高騰で吊り上げられる食糧は、石油と同じで、人が困るところから取り立てるようなものだ。
そうなったら、一揆打ち壊しだ。食えない人らで、蔵を襲う。インターネットで煽動すれば、罪になるからといっても、こんなブログを真に受ける人もいないだろう。
江戸時代の末期はまさに鰻上りに民衆の蜂起が高まった。悪政はいつの時代も倒される。そんなことが許されていいものか。
いまは、笑っていられる人たちも、飽食の時代で、コンビニにもスーパーにも食糧はいくらでもあり、食べ残して四割も捨てていて、冷蔵庫の中はいっぱい、ダイエットのために食べないようにしているときに、そんな江戸時代の話をしないでよ、と言う人も青ざめるときがすぐそこに来ているとテレビでは警鐘を鳴らしている。
二十一世紀は水不足にもなるという。そのために各地で戦争も起こるだろうと予測されている。加えて、オイルと食糧不足の取り合いだ。まさに生存競争の戦争が起こるのだろうか。
この欲望の星は次第に露骨に浅ましく、人間の醜さを前面に出して、終末へと急いでいるように見える。近ごろの石油の高騰と、穀物の投機、土地の囲い込みと各地での戦争、世界的な格差社会の露呈。それに加えて、日本と中国での食物の偽装と毒物混入。みんな儲けようとあらゆる手を使い、詐欺も横行している。わたしが神なら、こんな恥ずかしい失敗作品は、いますぐにでも壊して閉じたいところだ。
もし、すべての食品がいまの十倍の値段になったらどうなるだろうか。それでもエンゲル係数はそれに比例して上がらないだろう。きっと、料理に工夫して、安い材料で、似たような味と食感が出るように代用食が戦時中のように復活するのではないか。コーヒーもタンポポの根を焙煎して入れたりしていた。
家庭菜園もどの家庭でもやるだろう。ベランダでも足りずに、玄関から廊下へとプランターを並べて、部屋の中はそのまま温室だ。水耕栽培もできるものが売り出される。もやしや、ラディッシュ、茸なども家の中で簡単にできて、それが毎日の野菜になる。
戦時中の本が入ってくると、そんな都会での野菜栽培の本もあった。まさに一億二千万総国民戦時体勢で望まねばならない。
当然、タバコや酒といった贅沢品、嗜好品は節約になり、買うよりも作れで、どぶろく復活、うちの古本屋では辞書が売れる。コンサイスなんかちょうどいい。インディアンペーパーで、蓼の葉を干して刻んで巻いて、タバコの代わりだ。
水も食糧も節約するから、余して捨てることはなくなる。食べ物を大事にしようと言わなくても奪い合いだから、これはいい時代になりそうだ。ご飯粒ひとつ残しても叱られた子供のときを思い出す。一汁一菜でも三食食べられる家はまだいい。価格の高騰だけでなく、絶対数が不足するから、米が切れたら並んでも買えないという日が来るかもしれない。政府はそうなったら、米だけは昔のように配給制にするのだろうか。米穀通帳もまた復活して、それがなければ配給も受けられない。
国民が米を食えないなら、ケーキでもパンでも食べたらいいだろうという、どこかの王妃のようなことは言えない。そんな時代にはケーキなんか贅沢品で売ってもいないのだ。小麦と大豆は世界の奪い合いで、日本人の口には入らない。やっと米と野菜、魚だけが口に入る程度。暫くは、パンも麺類も口には入らない。納豆に味噌、醤油もないから、魚のひしおで代用。米だけで味噌を作る。日本人がまた米に戻るのだ。食料自給を上げるために、多くの若者が帰農する。その時代には、金はあまり価値がなく、食糧が価値を持つ。
強盗が入ると、「金を出せ」とは言わず、
「米と味噌を出せ」と包丁を突きつける。
江戸時代には、飢饉のときには、金を持っている旅人が追いはぎにやられずに、食糧を運んでいる人がやられたと言う。金がいくらあっても、配給だから、買えないし、腹いっぱいは食えない。戦時中には、羊羹がひと月に各家庭に一切れだけ配給があったと、おふくろから聞いた。甘いものは、そうなると、アザミの花をむしって舐めたり、野山にある野生の果物だ。
中国でも食糧難になると、日本で三割も輸入していたのが、入らなくなる。それは時間の問題だろう。そのときになって、中国製でもいいと言っても、もう遅い。どんなに食糧自給率を上げても、半分までゆくだろうか。いまの半分以下の食事でわれわれは我慢しなくてはならない。
そのために、いまから食べておくことだ。腹の周りに贅肉をつけておくこと。ただ、あまり美味しそうに太ると、肉として見られると困るから要注意だ。最後は、人間が人間を食うよりないのだから。
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